|| なにかの集まりを指すものの総称
「集合より範囲の広い」『なんらかの集まり』のこと。
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目次
・概要「クラス(類)の雰囲気を説明」
・ラッセルのパラドックス「クラス(類)の存在の保証」
・ブラリ=フォルティのパラドックス「順序数の不合理」
・真のクラス「集合ではないものの集まり」
・クラス(類)の定義「いろいろな定義のやり方」
この「クラス」という概念は
議論の『モデル』によって意味が変わります。
なのでこれの定義は一定ではありません。
具体的には
例えば「 ZF 」では『クラス』は定式化できません。
しかし「 NBG 」では『クラス』は公理化されてます。
まあつまるところ
「証明も反証もできない集合っぽいもの」って感じで
でも『存在する』ことは確実だから
無いとするのは無理がある。
とまあそんな感じの、ちょっとした腫れ物みたいな。
これはなんかそういうやつなんです。
集合とクラスの違い
「集合」は『厳密な意味』が決まっています。
この点で「クラス」とは明確に差があって
『中身が確実に分かる』「集合」と違い
『クラス(類)』は「よく分からないもの」も入ってます。
よくわからないもの
↓ のような『自身を要素に含む』
「集合のようなもの S 」は
\begin{array}{llllll} \displaystyle S&∈&S \end{array}
S 自身がどういうものであるのか
「構成要素が不明」な点で『集合』とは呼べません。
\begin{array}{llllll} \displaystyle ∅ \\ \\ \{∅,\{∅\}\} \end{array}
というのも
あらゆる集合は『空集合』と『冪集合』
その中身を操作することで構成することができます。
まあつまり
「構成する材料(空集合)」と
「構成する方法(冪集合など)」が明確なんですけど
\begin{array}{llllll} \displaystyle S&∈&S \end{array}
このような性質を持つ集合は
どのような手順で構成できるか分からないんですよ。
でも「中身は分かる」し
「存在するのは確か」で
それを定義すること自体はできてしまう。
そういった点で、
厳密に定義するのが非常に難しくなっているんです。
意味の比較
「クラス」と「集合」の関係は ↓ のようになっています。
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{Set}∪\mathrm{Class}_{\mathrm{proper}}&&⊂&&\mathrm{Class} \end{array}
これを見てわかると思いますが
「クラス」は『集合より意味が広い』概念で
「中身が確定している」という条件が無い
「中身が確実には分からない」
『なんらかの集まり』をも含むものになります。
その中でも「集合ではない」ものは
特別に『真のクラス \mathrm{Proper\,Class} 』
なんて呼ばれることがあります。
真のクラス
「真のクラス」の代表的な例
それは『集合全体の集合』で
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&∈&\mathrm{SET} \end{array}
これ、直感的には『集合』なんですけど
実際には「中身が確実には分からない」という点で
『集合』とは呼べないものになっています。
というのも
「集合全体の集合 \mathrm{SET}∈\mathrm{SET} 」を定義するには、
まず「集合全体」を定義しなきゃいけません。
しかし「集合全体」は
間違いなく「集合全体の集合 \mathrm{SET} 」を含むので、
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&∈&\mathrm{SET} \end{array}
『集合全体の集合』を定義しなくては
「中身」が確実に分からない、という状態になります。
とまあそんな感じなんですが、
最後の部分については
納得できない、という人も多いかもしれません。
実際、↑ の話だけで納得するのは難しいでしょう。
というわけで以下「ラッセルのパラドックス」にて
この辺りの話を掘り下げていきます。
ラッセルのパラドックス
|| クラスの存在証明
「素朴な集合論」で見つかった単純な矛盾のこと。
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&=&\{S \mid S∉S\} \end{array}
具体的には『集合全体の集合 \mathrm{SET} の存在』
これが「矛盾を生む」って話。
ちなみにこの「 S∈S 」を制限するために
ZFC には「正則性公理」っていう公理が存在しています。
普通の集合
『自身を含まない S∉S 』というのは
「集合」の性質としては当たり前のものです。
つまるところ「 S∈S 」なんて状態には普通ならず
それが『集合であると仮定するのなら』
この状態には無い、と考えられます。
まあつまり「集合全体の集合」が
「集合である」と考えるなら
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&=&\{S \mid S∉S \}\end{array}
必然的にこのようになるはずで
この話自体は実に当たり前の話です。
特に疑問が生じる部分はありません。
集合だという仮定
確認しておくと
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&=&\{S \mid S∉S \}\end{array}
この「普通の集合の集まり \mathrm{SET} 」は確実に存在します。
ここに疑問の余地はありません。
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&∈&\mathrm{SET} \end{array}
そしてこの時点じゃ確実にこうなることも分かっていて
この時点で \mathrm{SET} の存在は確実ながら
「所在」についての疑問が。
まあつまり \mathrm{SET} が普通の集合なら
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&=&\{S \mid S∉S \}\end{array}
確実にこうなるはずなんですが
「普通じゃない集合」としての性質 S∈S を
この「集合全体の集合 \mathrm{SET} 」は持ってしまっている。
この点で、ちょっとなにかがおかしい。
それがなんとなく分かるんです。
確認しておくと、
「普通の集合なら」 S∉S の全体
「変な集合なら」その『補集合』として S∈S の全体
『集合であると仮定する』のなら
この 2 択のどちらかに確実になるはずで
つまり「 \mathrm{SET} が集合なら」
この2択のどちらか片方になります。
そう、つまり『どっちも違う』ってことにはならないはず。
これもまた確かなことと言えますよね。
矛盾の導出
この話で重要なのは
「集合全体の集合 \mathrm{SET} の居場所」で
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&∉&\mathrm{SET} \\ \\ \mathrm{SET}&∈&\mathrm{SET} \end{array}
『 \mathrm{SET} が集合である』と「仮定」するのなら
確実にこのどちらかになるはず。
これははっきりしています。
\mathrm{Case}1
「集合全体の集合 \mathrm{SET} 」は『集合』ですから
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&∈&\mathrm{SET} \end{array}
自然に考えると
このようになると考えられます。
しかし定義を考えてみると、
\mathrm{SET} は、そもそも S∉S を満たす集合の集まり
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&∈&\mathrm{SET} \end{array}
つまりこうなる以上
\mathrm{SET} の中身にはありません。
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&=&\{S \mid S∉S \}\end{array}
つまりこうである以上
「 \mathrm{SET}∈\mathrm{SET} という仮定」から
「 \mathrm{SET}∉\mathrm{SET} 」が導かれてしまいます。
おかしいですね。
仮定「 \mathrm{SET}∈\mathrm{SET} 」に反する結果
「 \mathrm{SET}∉\mathrm{SET} 」になってしまいました。
\mathrm{Case} 2
\mathrm{SET}∈\mathrm{SET} のパターンはおかしいと分かったので
\mathrm{SET}∉\mathrm{SET} になるはずだと考えてみます。
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&=&\{S \mid S∉S \}\end{array}
するとこの「集合全体の集合」の定義から
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&∈&\mathrm{SET} \end{array}
こうなることは確実なので
そうなるとまたさっきのように
\mathrm{SET}∉\mathrm{SET} という仮定から
\mathrm{SET}∈\mathrm{SET} ということが導かれてしまいました。
結論
まとめると
こいつは「 \mathrm{SET}∈\mathrm{SET} 」でもなければ、
同時に「 \mathrm{SET}∉\mathrm{SET} 」でもありません。
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&∉&\mathrm{SET} &&×\\ \\ \mathrm{SET}&∈&\mathrm{SET} &&×\end{array}
つまりこの \mathrm{SET} 自身は
\mathrm{SET} の中にも外にも無い、という結論になりました。
「自身を含まない」『普通の集合の集まり』のはずが
こいつ自身は「自身を含まない普通の集合」ではないし
更には「自身を含む変な集合」でもない。
じゃあいったいなんやねんって話ですが、
でも、あることにはある。
だからこそよく分からないし
『集合』とは呼べない。
とまあ結果として
こんな事実が分かってしまいます。
矛盾の解消
この矛盾は『公理的集合論』などによって
「集合の定義を明確にした」結果、解消されました。
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&=&\{S \mid S∉S \}\end{array}
具体的には、
集合論の公理からは『集合全体の集合 \mathrm{SET} 』が作られない。
つまり「矛盾すると分かっているもの」は
そもそも「集合」として扱わない。
とまあそういう感じにしたわけです。
\begin{array}{llllll} \displaystyle S&=&\{ e∈S_{\mathrm{domain}} \mid eの条件 \} \end{array}
より具体的には
『議論領域 S_{\mathrm{\mathrm{domain}}} の制限を行う』ことで
『無制限の内包』が起きないようにし
\begin{array}{llllll} \displaystyle S&=&\{ e \mid e の条件 \} \end{array}
このような集合が作られないようにしました。
結果として \mathrm{SET} のようなクラスは構成できなくなり
矛盾は解消された、と。
まあそういうわけです。
ちなみに、これは実は考えてみれば当然の話で
というのも「内包」の持つ『全体』という概念の意味が
「どこからでも持ってきていい」ってのは、
まあさすがにやりすぎですよね。
「条件に当てはまるもの全部」の中には
あるいは『特殊過ぎるもの』も含まれるかもしれないわけで
そんなものが混入する状態だったら
まあ矛盾してもしょうがない。
とまあそういうわけなので
「条件に合うもの全て」から
『この中の条件に合う全て』にするのは自然な帰結と言えます。
集合ではないなんらかの集まりの存在
集合の全てを要素に持つ『集合』は存在しませんが
集合の全てを要素に持つ『集まり』は存在します。
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{SET}&=&\{S \mid S∉S \}\end{array}
この \mathrm{SET} は集合ではない。
けれど『存在することは確か』で
それを否定することはできません。
実際、ある「全て」みたいなものは
非常に直感的な概念です。
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{Set}&∈&\mathrm{BOX} \end{array}
「全ての集合を含む」『入れ物』自体は
直感的に普通に作ることができます。
けれど『集合だと仮定する』と矛盾を生じるので
これは「集合ではない」わけで
結果として
ただの「ものの集まり」は『集合』と『クラス』へ
それぞれ分けて考えなければならなくなった。
「ラッセルのパラドックス」と呼ばれるこれは
この点で非常に重要で、
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{Set} &⊂& \mathrm{Class} \end{array}
このパラドックスがあることによって
『集合』が厳密に定義された上で
「クラス」という概念が誕生することになりました。
以上
『クラス(類)』についてはこんな感じです。
総括
『クラス』っていうのは「ものの集まり全般」で
『集合』は「クラス」の中でも特殊なパターンになります。
ブラリ=フォルティのパラドックス
|| 順序数について
これは『順序数』についてのパラドックスで
結果的に、順序数がクラスだということを示します。
\begin{array}{llllll} \displaystyle α+1&:=&\{α,\{α\}\} \\ \\ α+1&:=&2^α \end{array}
『順序数』全体の集合 ON を考えると、
順序数の性質から『後続順序数 ON∈ON+1 』が必ず定義可能。
\begin{array}{llllll} \displaystyle α&∈&ON \\ \\ &&ON&∈&2^{ON} \end{array}
そしてこれは間違いなく『順序数』ですから
『順序数全体の集合 ON 』に含まれているはず
\begin{array}{llllll} \displaystyle ON&∈&ON+1&:=&2^{ON} \\ \\ &&ON+1&∈&ON \end{array}
しかしこうなると「 ON∈ON+1∈ON 」ってなるんで、
これは明らかに変な状態ですよね。
これはまあこんな感じの話で、
『順序数』に対応付けられるものは全部おかしくなる
だからこいつは変だ、ってことを主張しています。
矛盾の解消と利用
ラッセルのパラドックスと同様に、
これは『無制限な内包』を許すから出てくる問題です。
ですから、これはそれを禁止することで
ラッセルのパラドックスと同時に解消されました。
ただ、これは本質的に間違った主張ではありません。
『ルールによる制限』によって
『条件 P を満たす全てのもの』の
「全て」の内容が制限されただけで、こうなるのは事実です。
まあつまり、こいつは「集合」ではなく
「真のクラス」である、ということになります。
真のクラス Proper Class
『順序数』の話を ↑ でしたわけですが
実はこの「順序数」はこいつに関係していて、
\begin{array}{llllll} \displaystyle \displaystyle \mathrm{Class}_{\mathrm{proper}}&:=&\displaystyle\bigcup_{α∈ON}\mathrm{Class}_{α} \end{array}
というのも「真のクラス」の判定には
『全単射』が使われるんですよ。
\begin{array}{llllll} \displaystyle f&:& \mathrm{Class} &→& ON \\ \\ f^{-1}&:& \mathrm{Class} &←& ON \end{array}
まあつまり『順序数のクラス ON 』に紐づけできる場合
それは「真のクラス」だ、となる感じで、
基本的に『整礎的集合』なら自動的にこうなります。
なので、わりとこの判定方法は直感的です。
クラスの定義
冒頭でも軽く触れた通り
これは扱われる「公理」によって左右されます。
なので普遍的にこう、というものはありません。
分かってるのは『ものの集まり』だということくらいで
それ以上は特に何の決まりもありません。
公理系
『公理』の集まりには代表的なものが2つあって、
「 ZFC+GCH 」「 NBG 」ってのがあります。
そして「クラス」の定義はその中でそれぞれで違っていて、
例えば『公理的集合論 ZFC 』では、
全体として『到達不能基数 GCH 』で上から抑えて、
\begin{array}{llllll} \displaystyle \mathrm{Class}_{\mathrm{ZFC}}&⊂&κ \end{array}
その全体の『部分集合』として「クラス」が定義されています。
また『ノイマン-ベルナイス-ゲーデルの公理系 NBG 』では、
『集合全体』という「集合」の「量化」を、
「集合の上でのみ」と限定して『クラス』を「公理化」し
\begin{array}{llllll} \mathrm{Menge}(S)&:=&\displaystyle \exists \mathrm{Class}_{NBG} & S∈\mathrm{Class}_{\mathrm{NBG}} \end{array}
集合以外のものが混入しないようにすることで
「定義」ではなく「公理」として設定しています。
まあつまるところ、
この「クラスの存在」は公理みたいなもので
確かに「存在する」ことは分かるけど、
その『全ては』厳密に形式化しきれない。
でも「中身を集合に限定」してしまえば
そんな特に矛盾も出ない。
とまあそんな感じのものなわけです。
真のクラスの具体例
↑ で紹介しましたが
↓ が「真のクラス」と呼ばれるものになります。
『集合』全体の集合 SET
『順序数』全体の集合 ON
『基数』全体の集合 CN
『論理式』全体の集合 WFF
とまあこういう感じなんですが
見ての通り「~全体の集まり」みたいなものは
だいたい「真のクラス」になります。
ちなみに『圏論』では
これは「大きな圏」とか言ったりします。
「圏論」に関してはまた別で。
個人的な見解
実用的数学でも扱っていることですが
これは順番に考えるとそんな変なものではありません。
というのも、
パソコンを使ってる人なら分かると思いますが、
『何を入れるのか決めてる』
『自身へのショートカットを含むフォルダ』
これが「類・クラス」のイメージにめちゃくちゃ近いんですよ。
全体と条件と自己参照
『中身は後入れできる』状態
『自身を参照することができる』状態
『何が入るのかの基準が存在する』状態
まあつまり ↑ で挙げた
数学で見られる「集合・類(クラス)」の持つ性質を
「自身へのショートカットが入っている」
「どういうものを入れるか決めている」
そんな「フォルダ」は全て持っています。
全と有限の解釈
「クラス」が『既に全てを持つ』のに対し
このフォルダは「まだ入っていないものもある」わけですが、
そもそもの前提として
『クラスの中身は更新される』
つまり「後入れ」が前提となっているので、
違いという程にはそう明確な違いはありません。
実際のところ
『中身が全て入っている』という外延的な前提は
「その中身の全てが確認できる」わけですから
『中身を後で入れることができる』という
「後で中身を確認する」内包的な前提とは
そもそも区別して考えられるべきものです。
しかし「クラス」を考える場合
どうにもこの辺りがごっちゃになっているようで
というのも
「類(クラス)」のパラドックスは
『外延的』な定義では生じません。
『内包』の中でも
特に「無制限の内包」によって矛盾が生じるのであって
『外延』はここに一切関与しないんです。
まあつまり
「内包」と「外延」は別もので、
だとするなら、この場合もまたそのように考えるのが自然。
具体的には、
「外延」の場合は『中身が全て入っている状態』とし、
「内包」の場合は『中身の後入れが可能な状態』とする。
こうすることで、
「内包」の感覚をより自然に、
外延的な感覚とは別のものとして解釈すべきで
となると『要素が無限』の場合
「全ての要素を持つ状態」
これが『非現実的』であると断定できます。
なぜなら
「外延」のパターンでは『有限個のみ確認可能』で
「内包」のパターンは『有限個のみ後入れ可能』ですから。
以上
こう考えると「クラス」っていうなんか馬鹿でかいものも
人間に理解できるスケールのものに落とし込むことができます。