|| 歴史を持つ巨大な人の集まり
簡単には「たくさんの人が住む家」みたいなもの。
生活を支えるために、あらゆる仕事を分担し合ってます。
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目次
生きるということ『いろんなことが必要』
国民『国に所属している人』
国に属さない人『独りで生きていける人』
代表者『国という集まりの意思を決める人』
内政『自分が所属してる国の整備・システム組み』
法律『国という人の集まりにおけるルール』
警察『ルール違反者を取り締まる役職』
インフラ『生活についてのあれこれ』
生活インフラ『水・電気・ガスとか』
情報インフラ『教育・メディアなど』
外交『他のとことのお付き合い』
交渉『国が国になにかお願いすること』
貿易『国同士で経済を行うこと』
戦争『国同士で争うこと』
防衛『平和を維持するために戦うこと』
軍事的防衛『国家全体が、国民を守る』
民間防衛『国民一人一人が、国を守る』
「国」と言われると、どのような感覚を抱くでしょうか?
具体的に言うなら、どういう「感情」を抱きますか?
恐らくですが、多くの人は「弱い拒絶感」か「なにも感じない」か、
このどちらかに当てはまると思われます。
はい、つまるところ『関心が無い』上に、
「『なぜか』その話題には触れたくはない」という感じなんですね。
そんな「国」について、これからざっと解説していきます。
興味があったら見てやってください。
結論から行くと、「国」とは『人の集まり』です。
例えば、組織・企業・クラス・チーム・家族などなど、
これらもまた「国」の1つと言えます。
これらは『権威』のある「意思決定者」が存在する、
いわば「政治」が絡む話ですが、これはとりあえず保留します。
簡単には「まとめる人がいる」感じの話。
これを前提に話を進めていきます。
ともかく、『人は集団を作る』ことで、
『1人ではできないこと』を『できるように』しますよね?
要約するとこれだけの話で、
例としては、親と子の関係に近いです。
「子は1人では生きていけない」ですから、
必ず「親の助けを得る必要がある」感じ。
『人が集団を作る』のもこれと似た理屈で、
「1人ではできないことを実現するため」なわけです。
具体的には、例えば『防衛』なんかがそうです。
これによって、「集団で」『安全性を向上』させています。
この身近な例としては「警察」とかがそうですね。
警察自体が悪いことをしないわけではありませんが、
それは権力の中枢などの一部の話。
警察という防衛機能は、「法律」と絡めて、
間違いなく治安の「安定性向上させる」ことができています。
よくある勘違い
「国」について語る時に、よく見られる勘違いがあります。
とりあえず、代表的なものについて2つ紹介。
1つは『武装放棄が良い事だ』という主張。
もう1つは『差別は無くせる』という主張。
これらはどちらもが勘違いになります。
まずは『武装放棄は良い』についてですが、
これのおかしさは簡単に説明できます。
押さえておくべき事実は、
『自分は敵視してなくても、敵視されることがある』点。
つまり「争おうとしなくても、争いは起きる」って話ですね。
いわゆる「憲法第9条」の話です。
これが無意味であるという「明確な理由」が、これになります。
当たり前の話ですが、「敵を作らないこと」は重要です。
そのために「無闇に武器を向けないこと」は大事でしょう。
しかし、だからといって『武装を放棄』しても、
「争いが回避できるわけではない」んです。
なぜなら『武器を向けなくても、武器を向けられる』から。
だから、自らの身を守るために、「防衛」は必要不可欠なんです。
そう、『武装放棄』は根本的な解決策にはなり得ません。
これは「全ての人は善良である」という、
あり得ない極論を認めても同じことです。
なぜなら「全ての人が善良である」というなら、
『武器があっても使わない』わけですから、
「武器が存在していても良い」という主張は正しいままです。
存在していても使われないのですから、
放棄する理由にはなりません。
つまり『防衛のために武器を持つ』ことは、
いかなる理由によっても否定することはできないんです。
つまりこれを「放棄した方が良い」という主張は、
どう考えてもおかしい、明らかな勘違いと言えるわけですね。
話は変わって、『差別は無くせる』という主張について。
これも簡単にそのおかしさを説明できます。
押さえておくべき事実は2点。
1つは『人は所属先とその中身を同一視することがある』点。
これは「国」と「国民」は違うよ、って話ですね。
これと絡めて、『同一視する誰かが存在する』という点。
言い方を変えるなら、「勘違いする誰かは存在する」って話です。
つまり「自分がしないことは重要ではない」という感じ。
これらの事実から、
「人種、思想、宗教、生まれ」などによる、
俗にいう『差別は存在してしまう』というわけですね。
つまるところ『差別を無くせる』という主張は勘違いで、
「減らし、是正する」ことしか人にはできません。
要は実現性の無い理想論なわけです。
まとめるなら、言葉の使い方の話ですね。
便利に扱われている印象の強い、この「差別」ですが、
上手に扱えないのですから、そもそも扱わない方が良いって話です。
どこまでいっても『差別は存在する』し、
『人を害する存在は、一定数必ず存在する』のですから、
これを無くそうとすると、人が無闇に死ぬことになります。
これを避けるためにも、
『差別は無くせる』と考えるのはやめた方が良いです。
考えるなら、「差別は減らせる」の方にしておきましょう。
残念ですが、無くなることはまずありません。
そのようなことにリソースを割くのは止めた方が賢明です。
なにより、できないことを実現しようとすると、
あまり良くない歪みが発生することになります。
具体的には、過激な連中の思想はこういう傾向にある感じ。
例えば「ポルポト」のように『平等を実現しよう』と考えた結果、
そのために「優れたものを全て殺す」ことになったわけで。
現在でも見られる過激な連中は、
こういう『理想を実現しようとする』傾向にあります。
んで、これらは「=の誤用」の話に繋がります。
「差別意識」なんかの原因を辿ると、これに行き着きますし。
興味があれば、「=」について勉強してみてね!
集団での自衛の必要性
↑で語ったように、『人は襲われることがある』し、
『差別が無くなることはまず無い』ことから、
結果、必然的に「争いは発生する可能性がある」わけです。
この争いが「個人同士」であるのなら、
これを個人で打開することはできるでしょう。
しかし、『団結して襲われる可能性』を考慮すると、
これを「個人」でどうにかするのは難しいです。
こうなると、自分の「身を守るため」には、
集団に対抗するために、『団結して自衛する必要がある』わけです。
はい、これが「警察」とか「軍隊」とかの存在意義になります。
現代でも歴史上でも暴走しがちですが、
これもまた、無くすといろいろ不都合が出てくるものなんですね。
自分の国について
ともかく、ざっと自分の国について確認してみましょうか。
ともかく端的に、如何でしょう? 住みやすいですか?
私個人としては、非常に住みよい国、もとい家だと感じます。
内政はちょっとガタガタしてますが、民間は素晴らしいですし、
生活を成り立たせるシステムはきっちりしてます。
それに、特に知恵が無くても生きていけます。
他にも、そこまで力が無くても生きていけます。
なんなら、特に頑張らなくても生きていけます。
我が国では食べ物で困ることは稀ですし、
相対比較になりますが、治安も良い方だと感じます。
それこそ、物を落としても帰ってくるくらいには。
これらを『支えている人たち』には感謝と尊敬しかありませんし、
こういう人たちとは、助け合う関係でありたいものです。
残念ながらそういう人たちばかりではありませんが、
少ないわけではないはずです。
半数近い人たちは、こういう人たちだと私は信じています。
そう、私たちは「水」「食べ物」で困ることは、
それらを提供・生産してくれる誰かのおかげでほぼ無いわけです。
これが、分かりやすい「国」の存在意義の1つになります。
ただ、「思想」を決定する『教育』の面では恵まれてないですね。
この点については、本当にこの国のダメな側面だと思います。
変えていきたいですね。
他にも、例えば労働が尊いことであるだとか、
皆が平等に苦しむべきだとか、
こういった思想を押し付ける同調圧力が根深い点も問題です。
大きな問題点というと、こんな感じでしょうか。
他にもありますが、そこは省略。
以上、国についての大雑把な話は以上になります。
以下、もっと詳しく見ていく感じです。
良ければ見てやってください。
人が一人で生きていくには
|| 自分たちが生きる為にはなにが必要なのか
とりあえず、「国が無い」状態について見ていきます。
そのために現状を確認していきましょうか。
まず、現代の人は『金さえあれば生きていける』わけですが、
これは『多くの前提の上に成立している』ことですよね?
また、この前提を「意識していない」状態でも生きていけます。
知らなくても分かってなくても、金があればOKって感じに。
ただ、当たり前ですが、皆さんは「食べる」し「飲む」し、
「住む」し「寝る」わけで、そこには『実物』が存在します。
つまるところ、金だけじゃないわけです。
そう、私たちの生活を支えるシステムは、
「水」「食料」などの『物・資源』を、どこかから調達し、
それを私たちの手元に届けています。
はい、これが「国」の恩恵なわけですね。
私たちが便利に暮らせている今は、
「国」が提供するシステムによって維持されています。
国が無かったら
さて、もしもこのシステムが存在しない場合、
私たちはどうなるんでしょう?
考えたことはありますか?
ともかく、『安全な水源の確保』は必須ですよね。
これをしないことには干乾びて死んでしまいますし。
この次に、『食べられる栄養源の確保』も必須です。
しないと飢えて死んじゃいます。
他にも『安心して寝られる場所の確保』も必須です。
寝てる間が一番無防備で、野生動物とかに殺されかねません。
加えて、『外敵から身を守るための術』も必要です。
せっかく↑で見つけた縄張りなんかも、奪われたら大変。
またすぐに見つけないと、死んじゃいます。
とまあこのように、毎日が『生きる』ことに占められ、
他のことを考える余裕は一切無い状態になると考えられます。
しかしそれこそが、『1人で生きる』ということです。
誰にも頼らず、自らの力だけで生き抜くわけですから。
当然、頼れる人はいません。
助けてくれる仲間もいなければ、
他の仕事を分担してやってくれる誰かもいません。
例えば怪我をした時、手当も何もかも自分で行い、
それからの生活もまた自分一人です。
そう、1人ということは、つまりはそういうことなわけです。
だからこそ、人は、弱い動物は群れます。
群れることで、リスクを分散するわけです。
助ける代わりに、助けて貰えるように。
とはいえ、集団になるとルールは必要になります。
そのルールに縛られるのが嫌だという人もいるかもしれませんが、
そういったルールは、必要だから生まれたものがほとんどです。
まあ、1人で生きるならそのルールに縛られることはありません。
ただ同時に、ルールに守られることもないわけです。
無法地帯で生きるなら、その覚悟は必要でしょう。
これは「国」も同じことです。
規模の大小こそあれ、人は集団を作り、ルールに縛られます。
そしてそれと同時に、生活を安定させるシステムを享受するわけです。
はい、つまりルールとは、要は「義務」で、
この「義務」を負う人間が、それに見合う「権利」として、
国による安全保障など、サービスを受けられるわけですね。
逆に言うなら、義務に縛られたくないのなら、
権利も受け取らないというのが筋ということになります。
この辺りは個人の選択ですね。
といっても、例えば我が国のでかすぎる権利を捨てられる人は、
ほんの一部の例外を除いて、ほとんどいないとは思いますが。
作られる集団
|| 群れを作ることで、互いを補う
ほとんどの人間は、生存率を上げるために集団を形成します。
『生きる』という、根源的な『目的』を達成するために。
当たり前ですが、群れるメリットが無ければ意味はありません。
集団は、あくまでなんらかの目的の合致によって作られます。
その基本は『生きる』とか『便利に』とかですね。
もっと抽象的に言うなら『リスクを減らす』というのが、
人間が群れる主な目的になります。
最小単位は「家族」か「友人」でしょうか。
現代では「家族」の方がその感覚が強いかもしれません。
なんにせよ、人間は動物です。
子孫繁栄という種の目的を考えると、
必然的に家族は構成されます。
全てがそうというわけではありませんが、
生き残っているのなら、大多数はそのような選択をするでしょう。
そして今度は、そういった「家の集まり」が構成されるわけですね。
言い方としては、「集落」とか「村」とか、そんな感じのものが。
大きくなってくると「町」なんて呼ばれ方に変わったり。
んで、こういうのがどんどん集まって行って、
かなり大きくなってしまったのが「国」と呼ばれるものになります。
だから、本質的には『人の集まり』と言えるわけですね。
違いが出てくるのは、『意思決定者』が出てくる時です。
3人と100人が違うように、100人と10000人は違います。
当然、10000人と1憶人の場合も違うわけで、
ここで「家族」と「町」、そして「国」の違いが生まれるんですね。
国民
これは、この世界に生きるほとんどの人を指す言葉です。
というのも、国に属していない人間は、
家族もまた国と解釈するなら、ほとんど存在しないので。
それに、子が親を選べないように、
国もまた、自分で選ぶことはできません。
生まれてしまったのなら、そこで生きる必要があります。
ただ、愛するか愛さないかは自由です。
愛せない親がいるように、愛せない国もあるでしょう。
これは誰しもがそうです。
家の住人としての生活も、誰もが赤ん坊からスタートして、
気づけば、その一員として組み込まれています。
そこで何を得て何を失うか、
全てが個人の意思によってのみ決まるわけではありません。
人は生きる以上、必ず周りの影響を受けています。
その「環境」が良いものなら、
人は家族に、家に、愛着を持つようになるでしょう。
はい、これが「愛国心」の由来になります。
ただの愛着ですので、過激なものとは限りません。
なぜか良いイメージの無い愛国心
ともあれ、国を愛するというと、
『なぜか』漠然とした拒絶感を抱きませんか?
その愛着は自然なことだと、
そう当然のように自由に語ることすら、
『なぜか』忌避感を覚えていませんか?
これについて考えられる原因としては、
俗に言われる「右翼」「左翼」と呼ばれる人たちの、
『過激派』のイメージが強いから、というのはどうでしょう?
しかしながら、実際の話をするなら、
それらはあくまで『極一部』の話で、
さらに言えば「イメージダウン」戦略を実行している連中の話です。
『自分の国に愛着を持っている人』の中には、
当然、中身が多いですから、「過激な人がいる」ことは事実でしょう。
しかし『大多数(ほぼ100%)』の人は「過激ではない」です。
つまり、ただの「漠然としたイメージ」でしかなく、
その拒絶感というのは合理的な理由に則ったものではありません。
なぜか存在する「なんとなく」の感触です。
そもそもの話として、自然に考えて、
国が好きというのは、なんらおかしな話ではありません。
親を好きだと言うことと、本質的にあまり差はないので。
なにより、『国に愛着を持つのは、自由である』はずなんです。
良いか悪いはさておき、どちらでも良いはず。
強制するようなことではありませんが、
『国が好きである』ことそれ自体は、要は「ただの愛着」ですから、
それを持つこと自体がおかしいとされるのは違和感があります。
しかし我が国の実情を思うと、どうしたことか、
『国が好きであることはおかしなこと』なんですよね。
不自然な価値観ですから、違和感が強いです。
とまあ、如何でしょうか。
我々は国民なわけですが、なんでこうなっちゃったんでしょうね?
総合的にみれば、私たちの国はかなり良い国のはずなのに。
代表者
「集団の意思を決定する人」のこと。
感覚的には「政治家」と呼ばれる人たちがそうですね。
そして政治家とは、あくまで『代表者』です。
「国そのもの」ではない点に注意してください。
というのも、実情は『ほぼすべての人』がこれです。
どういうことかというと、
代表者というと政治家ばかりをイメージしがちですが、
前提として、「誰でも」政治家にはなれますよね?
昨今では、居眠りの多い国会議員はその代表的な例ですが、
一部の優秀な人を除けば、
あれらがその辺の人と変わっても、そこまで問題は出ないでしょう。
つまるところ、代表者とは「決められるもの」で、
なれる人間であればどんな人間でもなれるわけです。
能力はそこまで必要ありません。
なにより、『代表者を決めるのは民意』です。
そしてその民意は、教育とマスメディアが決めます。
その中で『代表者と認められた人』が全体の意思を決めるわけです。
その『認められる』という「権威」があって、
初めてその誰かは代表者になれます。
その権威こそが、いわゆる「多数決の結果」なわけですね。
投票とかがこれの実行手段になります。
そしてこの『選ばれる権利』は、多くの人が持っています。
年齢制限はありますが。
この「選ばれるため」の『権威』については、
原始的な例だと、学校生活なんかが良いサンプルになります。
なぜなら「権威」として、容姿の良さ、身体能力、頭の良さなど、
『分かりやすい力』が「権威」として認められてるので。
こんな感じで、「集団のあれこれ」を『決めることができる人』を、
「統率者」とか、なんとか、つまり「代表者」と呼んでる感じ。
そしてこれは、集団をまとめるためには必ず必要なものになります。
ただ、あくまで「個人」でしかないのもまた事実です。
『国』とは分けて考える必要があります。
国 Country
|| 個人の家の集まりとしての、家・環境という感じ
かなり規模の大きな、人の集団のことですね。
感覚的には「住んでいる家」のこと。
これは「全体」に目を向けてみれば実感しやすいです。
というのも、自分が住んでいる「家」がありますが、
これは「住居の中」で『完結してない』ですよね?
例えば「電気」「ガス」「水」なんかを家の中で使えますが、
これらは『住居の外』から、『誰か』によって提供されています。
つまり現代における私たちの「家・住居」とは、
『電気・ガス・水が使える居住空間』なわけで、
それらは『個人では維持できない』ものになります。
つまり、これが「国」の感覚なわけです。
「国」は、単純に家を大きく、便利にしたものですから、
端的な話、その範囲はとても広くなります。
この中でも、特に身近に恩恵を感じるのが、
家屋や生きる術を与えてくれる「家族」という国でしょう。
昔なら「隣人」もそうで、水、米、野菜、着るものなど、
生きるのに必要なものを、『互いに提供し合う』ことで、
我々のご先祖様達は生活を豊かにしていきました。
今ではそのシステムも発展に発展を重ね、
「国」「銀行」から、「企業」を経由して、
『お金』でその恩恵を享受できるようになっています。
このおかげで『生きていることは当たり前』になってしまいました。
良い事か悪い事かはさておいて、
今日も我々は、誰かのおかげで当たり前のように生きています。
これは間違いなく「国が存在するから」こそで、
その中で、誰かの頑張りが、誰かを生かしているわけですね。
国内と国外
そんな「国に属している」ということは、
形式的には『国籍を持つ』ことが条件になっています。
実際的には『その国の言語に馴染んでいる』ことがそうですが。
ともかく、人は「身近な人のため」に頑張りますから、
当然の話、まずは「家族」が優先されます。
この次に、「親しい他人」が来て、
次いで「親しい他人の、親しい誰か」が来ます。
このような感覚で人は繋がっているので、
最小単位に来るのは、やはり「家族」になって、
具体的には「血筋」が最優先されます。
これを念頭に事実確認をしておくと、
まず『全ての人を国で養うことはできない』ですし、
「国」には、『優先すべき対象が存在する』ことは明らかです。
はい、つまり「国籍」っていうのは、
要はこのためのものなわけですね。
「家族が家族を優先する」ように、
「国は国民を優先する」ことが原則になっています。
この感覚で行くと、
「国外の人」は、感覚的には「よく分からない他人」がほとんどです。
敵か味方か、価値観を共有できるかできないか、定かではありません。
この人たちが「自分の国」に来ることは、
要は『家に見知らぬ他人を住まわせること』と似たような話で、
実際的に、彼らは他人の家に厄介になっている状態です。
つまるところ「客」であり、
外貨とサービスを交換する取引相手であって、
「家族」とはまた違った相手なんですね。
当然ですけど、決して家族と同じではありません。
もし好き勝手するようなやつがいれば、
それは客とは言えない追い出すべき存在になります。
これを差別だという人もいるでしょうが、
いや、本当にそうですか?
私には当たり前のことに感じられます。
なんでって、『警戒』を『差別』と言って、
「おかしなこと」だというのは、逆に変だと思うからです。
なにせ、「よく知らない誰か」の中には、
ほぼ確実に『自分たちを害する人も存在する』んですから、
自分の身を守るためには、『警戒』は必要不可欠です。
これを「差別に含める」というのなら、
私は、差別はむしろしなければならないことだと感じます。
無警戒は、自分の身の回りの人も危険に晒しますから。
暴走する代表者
いつの時代もそうですが、『権力者の一部』は暴走します。
ただ、気を付けるべきは『一部』である点です。
大多数は暴走しません。暴走に巻き込まれるだけです。
ともかく、『一部』であっても「国家権力」は強大です。
その暴走による被害は大規模なものになります。
なにせ法律などの「ルールを作れる」上に、
「国の大まかな政策を決められる」わけで、
となると、場合によっては大きな損失が出たりします。
この感覚は会社の感覚で見ると分かり易くて、
例えば「100億円」の好きにできるお金があって、
これをとあるアホが全額投資して、全てパーにしました。
さて、どうしましょう?
この損失は、どうしたらいいんでしょうか?
はい、これが「良くない政策」による『結果』になります。
んで、これは一部の権力者によって起き得るわけです。
具体的には「脅迫」などでコントロールする術が有効で、
これは『一部』が「大多数を掌握する」ための常套手段になります。
脅迫の内容は、これは何でもありです。
「暴力」でも「弱み」でも、あらゆることが可能でしょう。
「人質」もあれば「ハニートラップ」やら「汚職の証拠」やら、
やりようはいくらでもあります。
こんな感じに、『一部』であっても、
「大多数」を動かすことはできるわけですね。
基本は「自然な方針」で固まっているのが代表者の動きなんですが、
世の中というのは綺麗には回らないものです。
当然のように、このような私欲を目的とした動きがあります。
例としては、我が国の大半の野党の動きとか。
不自然過ぎるほど、あからさまにおかしいです。
でも、どうやらそれがスタンダードなんですよ。
我が国同様、他の国も似たような問題を抱えています。
これで何が言いたいのかと言いますと、
『一部』「頭のおかしな代表者は存在してしまう」という話。
そしてこの意思決定者の動きに関心を持って欲しい、
とまあ、このような話がしたい感じです。
多くの人が無関心な政治の話ですが、
決して無関係ではないし、無関係ではいられませんので。
内政 Domestic Politics
|| 国内を豊かにしていく
これは「国家」の『システムをいろいろすること』ですね。
基本的には良くしていきますが、そうじゃない場合もあります。
とはいえ、基本は「良くしていく」感じです。
具体的には効率化を図ったりします。
いわゆる「国の力」を上げていくのがこれで、
なにをおいても『生命の維持』を大前提として、
『安全』『経済』の辺りが主軸に置かれます。
これらを『効率化』していって「住み良く」していくのが、
この内政の中身になる感じです。
この内、「国内の安全」を司るのが『警察』になります。
これは『他人を害する人は存在する』ことから、
安全のためには必要不可欠な国家機構です。
インフラストラクチャー
|| 今の生活とかの基礎を成り立たせているもの
「基盤」とか「下支えするもの」とか言われたりします。
要は『今を成立させるあれこれ』のことですね。
大別すると「生活インフラ」と「情報インフラ」があります。
生活インフラっていうのは、要は日常についてのあれこれで、
情報インフラは、教育とかマスメディアとかのことですね。
内訳が細かいのは「生活インフラ」の方になります。
これは「水」「食料」に始まり、
今では「電気」「ガス」などが増えました。
他にも、移動のための「道路」や、
電力を供給するための「電線」などなど、
私たちの生活を成立させているものがこれですね。
当たり前ですが、これは『維持されている』ものです。
つまるところ『維持してる人が存在する』ってことで、
なにも無いところから湧いてくるわけではありません。
つまり「現代社会で生きている人」は、
『インフラを維持してくれている人』のおかげで、
ここまで便利な生活を享受できているわけです。
感謝すべき、と言うつもりは私にはありません。
ただ、これに感謝できない人は真っ当と言えるのか。
そのようには考えてしまいますね。
『内政』では、この「インフラ」について主にあれこれします。
感覚的には「便利に」していく感じです。
とはいっても、「良くするだけではない」んですよね。
『愚かな人は存在する』し、『失敗することはある』ので、
内政は必ずしも良い結果のみを実現するわけではありません。
「失敗」については、悪意が無い場合は仕方がありません。
例えば大きな変革を行う時など、問題は出てくるでしょう。
このパターンはしょうがないです。
ただ、しょうがないでは済まされないこともあります。
それは、いわゆる私欲や悪意によっての失敗とかがそうですね。
これは意図されたものなので、なんらかの処罰が必要です。
今を見ても昔を見てもそうですが、
国を私物化しようとする連中はいます。
そしてそういう連中は、良くすることを目的とはしません。
利益追求が第一ですから、成功も失敗も二の次です。
被害が出ようと、利益のために動くだけ。
そしてこういう輩は決して少なくはないです。
こんな感じに、内政はごたごたします。
とにかく権力がすごいですから、それも致し方なし。
なので、多くの人にはきちんと政治に目を向けて、
そういう連中を権力に近づけないようにして欲しいんですが、
これも難しいのでしょうね。
自分の国の内政
実際、残念ながら我が国の内政はガタガタです。
『現代の最大権力』である「マスメディア」を筆頭に、
「国会議員」の多くが国を良くしようとはしてません。
特に「教育」方面は壊滅的で、
社会に出て必要なことはほとんど教えていません。
政治に至っては「消極的な拒絶」という最悪の状態になってます。
そう、我が国の情報インフラは、「ネット」を除いて、
一部の人間たちに私物化されている状態にあるわけです。
問題点については、他にも挙げればキリがないですが、
大問題として、「国会議員」に優秀な人が少ないのはやばいですね。
行政府はぎりぎりまともですが、立法府はぐちゃぐちゃです。
ただ、我が国は「民間」がめちゃくちゃに強いので、
国家を運営する側がダメでもなんとかなってます。
ただ、これもいつまで続くかはわかりません。
というのも、この「民間」というのが、
要は「教育を受ける側」なわけです。
んで、この人たちの「多く」は必要なことを学べません。
学歴のため、思考能力を鍛えない暗記教育を中心に学ばされ、
楽しみを見出せない多くの人は勉強が嫌いになっていきます。
そう、学ばない人が多くなっていくわけです。
こうなっていくと、民間の力も落ちていきます。
なぜならこの民間の中に「学ばない人が増えていく」ので。
このような流れで、「国」という家が、ゆっくり、しかし確実に、
その機能を維持できないようになっていってるわけです。
多くの人が実感できないまま。
これを防ぐには教育インフラをしっかり整備するべきで、
我が国の大きな課題はこれに尽きます。
改善したいですね。
内政による被害
国家の権力は強く、その影響の範囲は広すぎるため、
被害が出ても、その被害は大きさの割に実感できません。
つまるところ、政治に無関心でいると、
自分たちが何を失うのか、まるでわからないんです。
ただ、1つ確実に言えることは、
我々は確実に『自分の時間』を奪われています。
ゆっくりと、しかし確実に削られてるんです。
例えばですが、皆さんはなんのために生きていますか?
もっと言うと、誰を支えて生きていますか?
自分? 家族?
水も食料も電気もガスも、何も生み出していないのに?
恐らくですが、多くの人は分からないと答えるでしょう。
そう、自分が何のために働き、何を生み出しているのか。
それをきちんと認識できている人は、そう多くないんです。
なにせ、多くの人は政治に無関心です。
そして政治に無関心であるということは、
つまり、国家の構造を意識していないということでもあります。
そう、「問題の多い教育」の弊害がここで出てるんです。
我々は国家、社会に生きているのに、
それが分からず、意識できてないわけですから。
感覚的にはルールも分からずゲームをしてるようなものですね。
極端な話、操作やらなにやらが一切不明で、
目的もなく、意味もなく、ただ時間を浪費させられています。
ですから、誰のために価値を生み出しているのか、
それすら理解できない人が多く生まれ、
結果、自分の存在意義が不確かになっていくわけです。
追記すると、これは「マーケティング」の基礎になります。
いわゆる「需要を満たす」ための「生産」ですから、
『どんな人たち』に『どんな価値あるもの』を提供するか、
ちゃんと定めるのにこの政治の感覚が必要なんです。
労働というものは、基本はこれが前提になっています。
『価値あるものを生み出す』ことができなければ、
それこそ無意味なわけですから。
なにより「なんの・誰のための」ものか分からないなら、
自分を肯定する気持ちなんてのも生まれるはずはなく、
気力は沸かず、ただお金のためだけに働くことになります。
その代償に「娯楽」で時間の大半を消費するようになり、
「知ろうとする機会」すら奪われていくわけですね。
こんな感じに、ただ「なんとなく」今に疑問を持てず、
ただ生活を維持するため、「お金のために働く」というのが、
現代に生きる多くの人の時間の使い方になっています。
残酷な話ですが、その行為は基本的に無駄です。
必死に働いたとしても、それでは社会に貢献できません。
なにより、していると実感できません。
自分が何のために生きているのか、実感できないんです。
多くは会社、つまり経営者のために働かされ、
社会全体へはなんの価値も提供できていません。
つまるところ、会社に養ってもらっているわけで、
その中でも「誰にでもできる単純作業」を繰り返す場合なんかだと、
時間を浪費しているだけで、本当になにも生み出せてはいません。
このように、教育をきちんと行わなかった現状、
多くの人が時間を無駄にしている今を生み出しています。
ただ、「価値を生み出す」ことがどういうことか、
「国」「政治」とは何かということを知らないばかりに、
自分が受けている恩恵にすら気づけないわけです。
結果、社会貢献への関心を持てず、
働く意義、意味を見出すこともできず、
資本経済のために磨り潰され続けているというわけです。
「時間」についてはこんな感じですが、
この調子だと、今は問題の無い「水の供給」も、
もしかすると保証がなくなるかもしれません。
実際、水がまともに手にできない国はいくつもあります。
しかし我々はあまりそのことに意識を向けることはありません。
正確には、意識することができないんです。
なぜなら多くの人は、興味のあること以外を知ろうとしません。
つまり必要であっても、教えなければ『知る機会が無い』んです。
こうなると「ほとんどの人」は知らないままとなり、
意識するような機会すら喪失していきます。
ですが、はてさて、
これをきちんと認識している人はどれくらいいるのでしょうか?
そもそもの話として、これを考える機会がありましたか?
とまあこんな感じで、内政の影響は意識し辛いんです。
気づけば浸透し、国民を蝕んでいます。
いやあほんと、ちゃんとやらんとダメですよ。
外交 Diplomacy
|| 他の国とのお付き合いについてのあれこれ
これは国外に目を向けるときの話になります。
感覚的には、ご近所さんとのお付き合いの感覚ですね。
基本は『貿易』、つまり「互いに利益を得る」のが目的ですが、
時には『支配』という「利益が偏る」パターンもあります。
これは時代や場所によってまちまちですね。
とは言っても、ほとんどは「互いに利益を得る」のが目的で、
いちいち恨みを買うような真似は、通常、しません。
皆さんも、ご近所さんとトラブルを起こしたくはないですよね。
まず無駄ですし、得られるものはそんなにありません。
そしてそんなトラブルを避けるために、
自然な流れとして、仲の悪いご近所さんとは関わりません。
そういうわけですし、なにより時間は有限ですから、
どうせご近所付き合いをするなら、仲の良いご近所さんを優先します。
似た感じの理由で、国もまた仲の良いご近所さんを優先します。
「外交」を優先的に行うのは、自然に考えると仲が良い国です。
んで、仲の良い国を優先するのが自然な話ですから、
仲の悪いご近所さんとは、できるだけ付き合わないです。
これが、自然な外交と言えるわけですね。
付き合わなくてはならない
とはいえ、人間同士でもそうですが、
仲の良いご近所さんとだけ接することができるわけではありません。
時にしがらみがあったりして、嫌な人と絡まなければならないことも。
国家同士でも同じで、
『付き合わなくてはならない』場合がどうしてもあります。
分かりやすいところだと、
例えば「石油」などの「そこでしか安定的にとれない資源」があって、
これが必要になる時、どうしても絡む必要が出てくる感じ。
他にも、いわゆる「絡んでくる」場合も考えられます。
というのも、こちらに絡むつもりが無くても、
あっちから絡んでくる場合がどうしてもあるわけです。
例えば健全なところだと、
↑の例のように資源を欲する国があったりすると、
資源を提供する側の国からしてみれば、その国に絡まれるわけですね。
健全じゃないやつについては、
例えば、デタラメな言いがかりで絡んでくる国とかがあったりします。
他にも、足を引っ張ってくる国もあったり。
この辺り、学校の感覚とかが結構近いかもしれません。
クラス内の全員が健全とは限りませんからね、普通。
自国の外交事情
仲の良い国は結構ありますね。
あまりマスメディアでは扱われませんが、親日国は多いです。
ちょっと把握するのが難しいくらいには。
近いところだと「台湾」とかがそうですね。
大陸の方だと「モンゴル」とかもそうです。
南の方だと「インドネシア」とかもそうで、
他には「パラオ」や「タイ」とかもそうです。
大陸側だと、他にも「インド」もそうですし、
中東の方だと「トルコ」とかもそうです。
ヨーロッパの方なら「ポーランド」とか。
他にも「フィンランド」とかがそうですね。
更に西を見るなら、「モロッコ」とかもそうです。
大西洋を越えると「ブラジル」とかも親日でいてくれてますね。
他にも探せば出てくるでしょうけど、
ちょっと多くなりすぎるので、紹介はこの辺りで。
ともかくこの辺り、なぜ好感を抱いてくれているのかとか、
そういう時代背景なんかを調べたり深堀したりすると、
勉強になる上に、手軽にほっこりした気分にもなれます。
だいたいどういう経緯かは予測がつくでしょうが、
言ってしまうなら、「過去の偉人のおかげ」ですね。
そう、我々の国にいたシンブルにすげー先人のおかげで、
私たちは良き隣人を得ることができています。
今後とも、末永く仲良しでいたいものですよね。
ついでに話は変わって「反日国」についてですが、
これは語らずとも多くの人が知っていることなので省略します。
その国に住んでいる人たちの全てがそうではありませんが、
『無視できない人数』が悪感情を持っている以上、
仲良くできる日は遠そうな気がします。
何より、一部の国は「反日教育」を行っているので、
我が国からのアプローチではどうにもなりません。
作られた虚構とはいえ、憎悪は簡単には消えないので。
これを「教育」という、
価値観に根深い影響を与えてしまうもので行う場合、
それを鵜呑みにしてしまう一定数の人たちはどうしても出てきます。
残念なことですが、そういう教育を行っている以上、
きっと長い年月、仲良くすることはできないでしょう。
こちらからはどうしようもないので。
とまあ、外交についてはこんな感じです。
まとめると、要は「ご近所付き合い」のことになります。
こんな感じなので、皆さん、外交について学ぶときは、
仲の良い国について調べていくと良いですよ。
地理や歴史も、こういうところから始めるのが良いと思います。
防衛 Defense
|| 身の安全を全体で守り合う
これは『外敵から集団で身を守る』考え方になります。
『平和の維持』のためには「必要不可欠」です。
簡単な話をするなら、要は「警察の存在」ですね。
『犯罪者は一定数存在する』ので、
それらから『国民を防衛する存在』が必要になる感じ。
「軍隊の存在」も似たような理屈です。
「警察」が『国内に存在する脅威』を排除するのに対し、
「軍隊」は『国に対する脅威』を排除します。
当たり前ですが、これなくして平和は維持されません。
なぜなら『武力を用いずに平和を維持する』には、
『他者を害する者は存在しない』という前提が必要なので。
平和に対する勘違い
「平和」という言葉を知らない人はほとんどいないでしょう。
しかし、これが『なぜ維持されているのか』という、
いわば理由・原因については、あまり知られてないと思われます。
これについてのよくある勘違いですが、
『争わない・戦わないこと』という、
いわば「しないこと」が理由だ、という主張がよく見られます。
ただ、これはどう見ても明らかな勘違いで、
例えば「相手が自分を殺しに来た」場合、
↑を遵守するなら、逃げるか死ぬかしかありません。
しかし「いつまでも逃げ続ける」場合、
ただ『奪われ続ける』だけです。
居場所を追われ、家を奪われ、安定を奪われるわけですから。
それに逃げたとしても「また殺しに来た」としたら、
「逃げ続けなければならない」わけですから、
そこに安心や平穏、いわば「平和」はありません。
そう、「殺される」ならただ奪われて死ぬだけで、
「逃げる」選択をしても、平和は維持されません。
このように『戦わない』というアプローチは、
「奪われ続けることを許容する」ことと同義なわけです。
これを、平和と思えますか?
少なくとも、私は思えません。
また、多くの人もまたこれを平和だとは思わないでしょう。
「平穏である」こと。
「奪われない」こと。
これらは平和には欠かせない要素です。
結論から行きましょう。
これらを維持する方法は『外敵からの防衛』になります。
そう、『奪うもの・乱すもの』から『自らを守ること』こそが、
「平和を維持する」ためには必要なんです。
当然、このためには戦わなければなりません。
殺人者は拘束し、罰しなければなりませんし、
人を襲って殺す獣は、駆除しなければなりません。
そう、外敵と戦わなければ、平和は維持できないんです。
この『戦う』という言葉に拒絶反応を示す人がいますが、
これは恐らく、「戦う」と「犠牲」を混同しているためでしょう。
もしくは『実感できていない』だけなのかもしれません。
とはいっても、結局これらは切り離せません。
平和の維持に必要なのは『防衛』ですが、
「平和を乱される前に攻撃する」こともまた『防衛』です。
当然、「凶器を持った人」がいれば『殺してなくても拘束』しますし、
「核兵器を発射する準備をしている人」がいれば、
そのような人物は暗殺されても仕方がないでしょう。
そんな中、戦って死ぬ可能性は否定できません。
なにせ、外敵は殺しにかかってきているわけですから。
このように『平和の維持』という目的のためには、
「戦う」という選択肢は必要不可欠なんです。
この現実は無視できるものではありません。
なぜなら、そのような「愚かな人」は、
『必ず一定数存在する』んです。
『事故は起きてしまう』し、
『犯罪者は一定数存在する』し、
同様に「平和を乱す人は存在する」わけです。
『平和を望まない人が存在する』という現実がある以上、
そいつらとは「戦わざるを得ない」んですね。
はい、『防衛』の概念は、このために存在しています。
『平和を維持するためには、戦わなければならない』わけです。
どうしても『一定数存在する』「平和を乱す存在」と。
軍事的防衛
|| 戦争をするという選択を、選ばせないアプローチ
要は『武力による戦争をすると、失うものの方が多い』なら、
『武力衝突を起こす意味が無い』ようにするやり方です。
簡単な話、「喧嘩が強そうな人」がいたとして、
その人に対して理由もなく喧嘩売るのか、という感じの話。
他にも「筋肉モリモリのマッチョな人」がいて、
その人に生意気な態度がとれるのか、とか。
要はこういう理屈で、馬鹿に喧嘩をさせないようにする話ですね。
現代では『核兵器』の存在が大きいです。
今の平和は、この兵器の存在で保たれてると言って良いでしょう。
というのも、仮に武力による戦争がはじまった場合、
最終的には必ず『核兵器の撃ち合い』になります。
なぜなら「核兵器を使わないルール」で戦争を始めたとしても、
「追い詰められてしまった」場合、為政者は核兵器に手を伸ばします。
負ければどうせ死にますし。
そして使われたとなると、撃たれた側も黙っていません。
すぐさま報復として核兵器を撃ち返します。
んで、世界に核汚染が広がっていくわけですね。
こうなるともう、取り返しはききません。
互いに滅びて終わりです。
なんのために戦争をしたのかとか、そんな感じになっちゃいます。
これが、いわゆる『相互破壊確証』というやつですね。
武力での戦争を始めても意味が無いから、戦争をしない。
だから、見かけ上、平和が維持されている。
こういう「仮説」を『相互破壊確証』と言っています。
そしてこれを担っているのが「軍事」になるわけです。
民間防衛
|| 民衆が腐ることを防ぐアプローチ
これはつまり『国民1人1人の自己防衛意識』のことですね。
要は「自分たちの家は自分たちで守る」理論です。
核兵器が相互破壊確証を成立させていて、
軍事衝突となれば壊滅的な消耗戦が約束されている昨今、
武力によるアプローチは国際社会的には下策も下策です。
はい、これが『軍事的防衛』の効果になります。
「武力介入ではメリットが無い」という状態にできていますので。
ここからが本題ですが、
『それでも人は争う』んです。
要は「戦争の形を変える」ことで、
国を乗っ取るための、新たな争い・戦争がはじまりました。
これが俗に言う、「武力を用いない戦争」になります。
これは「国家同士の争い」で支配するアプローチではなく、
「国民に受け入れさせる」ことで支配するアプローチです。
そしてこれを防ぐアプローチこそが、
『民間防衛』と呼ばれるものになります。
武力を使わない戦争
簡単には「味方と思わせる作戦」で乗っ取る感じ。
これをする側とされる側があって、ここで争いが生まれます。
例えばですが、100人の村があって、
これを「少ない人数」で「戦わず」に支配したいとします。
全員で30人いて、武力を用いず5人でこれを攻め落とすには、
まず「味方として溶け込む」ところからスタート。
溶け込んだら、次は「意思決定者」をどうにかします。
自分たちがなるのが難しければ、弱みを握って脅したりして。
具体的には脅迫、つまり人質、ハニートラップとか。
このようにして、じっくりと権力の中枢へ潜り込んでいったら、
今度は「思想の統制」を行っていきます。
具体的には「教育」や「情報発信」の内容を操作します。
詳しくは『愚民政策』を参考に、
こうしてコミュニティ内の人たちを「バカにしていく」ことで、
ゆっくりとそのコミュニティ・村を腐らせていくわけです。
こうして「武装を解除」させ、
「戦う意思を持たせない」ようにし、
そのコミュニティの『防衛能力を奪う』わけですね。
こうして最後は、「外に控えていた仲間」を招き入れ、
『防衛能力を失った連中を、武力を用いずに支配する』わけです。
こうすることで「国を手に入れる」という目的を、
『武力を使わない』で達成できるわけですね。
『スイス政府の民間防衛』より抜粋
通称「乗っ取り戦争」の概要:6段階
・第1段階
政府の中枢に工作員を送り込む
・第2段階
マスメディアを掌握し、大衆の意識を操作する
・第3段階
教育現場に浸透し、国家意識を破壊する
・第4段階
平和・人類愛をプロパガンダに利用し、抵抗意志を破壊する
・第5段階
テレビ等のメディアを利用し、自分で考える力を奪っていく
・最終6段階
民衆が無抵抗で腑抜けになった時、大量植民を行う
残念ながら、我が国はこの戦争においてはほぼ敗戦状態です。
今は最終段階の真っ最中となっております。
敗戦国の末路を理解している人であれば、
これがどれだけ危ない状況か理解できるかと。
しかし「政府」も「情報媒体・マスメディア」も、
どうやら我が国の国民を守る気はあまりないようで、
この知識を周知させることすら行っておりません。
考えてみれば当たり前ですが、
人類愛なんてものはあくまで綺麗ごとに過ぎません。
人は必ず「守るべき人」とそれ以外を分けますし、
単に人といっても、当然ですが悪質な人もいます。
それこそ「思想が合わない人」なんていくらでもいるでしょう。
これを無理やり混ぜると問題が生じるのは当然で、
本来であれば、じっくり、相手を見てやるべきことです。
しかしこの戦争においては、
「国政を腐らせる」「国民を腐らせる」
「マスメディアを腐らせる」「教育を腐らせる」
このようなやり方を行っているわけです。
皆さんは、この「思想・やり方」を実行する人間を愛せますか?
少なくとも、私は愛せません。
人の足を引っ張るやり方では、将来的に無駄に血を流すだけで、
長い目で見れば、これを実行に移した人もまた不利益を被ります。
そのような非効率かつ無駄に争いを生むやり方を実行する人達を、
私はどうしても尊敬できないんです。
なにより、この被害を受けるのは我々の下の世代です。
既に我々の世代にも影響は出ているわけですが、
この比ではないほど、我々の下の世代は影響を受けるでしょう。
そしてそれは、もう止めることは困難というのが実態です。
が、軽減することはできるかもしれません。
そう、我々の世代がこういった最低限の知識を得て、
考えて、判断できるようになっていけば、
止められなくても、被害を小さくすることはできるかも?
このような観点から、この知識を最低限の教養と位置づけました。
知らないでいていい知識の類ではないと思いますよ、これ。