|| 重要ってそもそもどういうことなのか
ここでは『重要』を「数値」にして表してみます。
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といっても、基本は「超たくさん」とか「ちょっと」とか。
そんな感覚的な数値の話しかしません。(でも明確に分かる)
モデリングの基本
前提「一階述語論理とか、要は数学」
必須情報「抽象情報と具体情報は必ず使う」
使う材料「有限集合とクラス」
『全』の解釈「人に観測されるもの限定」
後者規則「入力されていく感じ」
材料のラベル「クラスの中身の名前」
情報「あらゆるものは情報で構成されてるとする」
ここから本題
大枠「クラス(類)・出発点」
重要「全体を占める要素の割合が大きい」
最小単位「要素になるもの」
中身「概念を構成する意味・具体例のこと」
戦略「目標の実現に直結する手段のこと」
戦術「戦略を実行するための手段」
分類「要素または部分集合になるもの」
2択分類「それとそれ以外で分類」
大域「本質に近い条件」
局所「本質からは遠い条件」
ここでは『数値感覚』についての話をします。
これは、要は「比較」っていう行為の具体的な話です。
これに関連する概念としては、「重要」とかがそうですね。
他にも「微妙」とか「すごい」とか「結構」とかもそうでしょう。
なんの話か伝わりにくいかもしれませんが、
例えば『重要な話』とか『重要なこと』とかには、
ある程度の「数値の感覚」があるよね、っていう話です。
どういうことかというと、要は「重要なこと」が決まるなら、
当然の話として、「重要じゃない部分」ってのもありますよね?
でもこれ、なんで? みたいな。
つまり『重要かそうでないか』っていう区別ができている以上、
そこには、これを決めるための『なんらかの基準』があるはず。
はい、この『基準』っていうのが、
結論としては、「数値の感覚」になるわけです。
といっても、これは具体性の強い感覚ではなく、
「どちらが、どれくらい大きいか」というようなもので、
具体的に「1とか2」などの数値は使われていません。
調べればそれなりに意味のある数値を出せるんでしょうけれど、
感覚的には、「 \mathrm{Not}<\mathrm{Important} 」とか、
こんな程度の、適当な感じだと思います。
ともあれ『明らかにでかい』という感覚が存在している以上、
やはり「ある程度の具体的な数値」は存在しているわけです。
例えば『 99:1 』なら、
明らかに「 99 」の方が重要で、
明らかに「 1 」の方は重要ではありません。
そしてこれは、『感覚的に分かる』んです。
ということは、「分かる」わけですから、
『なにかしらの基準』が確かに存在していて、
その基準を元に「数値を大雑把に求めてる」わけですね。
というわけで、ここではその『基準』について、
より具体的に、厳密に見ていきます。
参考になれば幸いです。
枠
|| 概念の構造上、存在している中身
例えば『重要』なら、「中身を多く占めている」感じ。
このような「感覚」は確かにあるよね、って話です。
結論としては、『全体』と『個』を明確に区別すればOK。
「数値感覚」っていうのは、基本的にはこれだけで説明できます。
言い直すなら、
『全体』が「抽象情報」で、
『個』は「具体情報」です。
さて、では『重要』とはなにかを考えてみましょうか。
この感覚ですが、まず、ある「大雑把な全体像」があって、
その「全体像の中の、多くを占めている」っていう、
いわば、全体像の中身の『量』を認識してる感覚ですよね?
どうでしょう、これに納得できるでしょうか?
無理そうなら、とりあえず具体的なものを想像してみてください。
一応↓に具体例は載せていますが、とりあえず一旦ここでは省略。
話を戻すと、↑であるなら、
やはり枠として『全体』は存在しているんです。
そしてその「多くを占めている」ということは、
『占められているもの』として、
「全体を構成するもの」である「個」もまた存在しています。
考えてみれば、まあ当たり前の話ですよね。
「多い」も「少ない」も、『量』がないと話になりません。
そしてこの『中身』を説明する手っ取り早いものとしては、
やはり『概念』を使うのが良い感じでしょう。
というわけで、これについて押さえましょうか。
詳しくは『概念』の記事を参照してもらうとして、
とりあえず話を進めていきます。
一応大雑把に確認しておくと、
『概念』は、『意味』という単位で構成されてるものです。
そしてその『意味』は「条件・本質」で『分類』できます。
大雑把には、『概念』とはこんな感じ。
『意味』『分類』を押さえておけばだいたいOK。
この記事で扱うものは、要はこの「中身」のお話になります。
結論としては、「概念の中身」の中でも、
特に『重要』なものについてここで見ていく感じ。
「重要じゃない」も、この否定で分かります。
要約すると、これは『概念』の「中身の比重」についての話です。
言い換えるなら、『特に注目される情報』についてのこと。
これが、この記事のメインの話になります。
んで、結論としては、この「中身の数」こそが、
『重要』のような「数の感覚」の話に繋がるわけですね。
といっても、この説明ではなんだか抽象的過ぎます。
なので、とりあえずは具体的な事例を見てみましょうか。
指標が欲しいので、とりあえず『重要なこと』について。
そのために、適当に「~だよね」のような『主張』を用意します。
例えば「人はめんどくさがりだよね」という主張があったとして、
この返しに「でも一生懸命頑張ってる人もいるよね」とか、
こういう会話の流れがあったとしましょうか。
これはまあ、一見すれば分かるような?
でも、なんか噛み合ってない感じがしませんか?
結論から行くと、ここで『重要』とされるのは、
人が「めんどくさがり」という『性質・特徴を持つか』という点。
つまり「全体」の話かどうか。
ですから本来、これに対しては、
「持つ」か「持たない」か、が問われるわけです。
しかし、ここで「一生懸命頑張ってる人もいる」とくると、
一見するとなんだか反論のように聞こえますが、
結局これ、「性質の有無」には触れていないんですよね。
つまりこれ、反論のようで反論になっていません。
人は「めんどくさがり」でも、頑張る時は頑張りますし。
これについて、より詳しく解説をしましょうか。
これですが、要は「めんどくさがり」という、
『性質・特徴』を「持たない人」はほぼいないって話に対して、
もっともらしい反論をしてるように見える、という話なんですね。
「めんどくさがり」を厳密に定義しろって言われるとあれですが、
無理のない範囲で広く解釈するなら、
本来、この主張には目立った間違いは無いはず。
自然に考えてみても、めんどくさがりじゃない人って、
いや、むしろいるんでしょうか?
つまるところ、このめんどくさがりという「人の特徴の一つ」は、
『ほぼ全ての人』が持つ特徴と言えるわけです。
仮に当て嵌まらない人が存在したとしても、
それは明らかに例外中の例外になるので、
それを「重要視する必要はない」と、そうなりますよね?
要は「ほぼ全てがそうだよ」って話なら「全体」の話になっていて、
その内の幾つかが反対に見える性質を持っていたとしても、
その話、あんまり関係ないよね? って話です。
これは他にも「傾向が強い」場合なんかもそうですね。
これも否定されるとき、なぜか例外を持ち出されることが多いです。
反論になってないんですけど。
それに、そもそも「一生懸命頑張ってる人もいる」は、
あくまで「頑張ってる人」が『存在している』と主張してるだけで、
「特徴の有無」に言及しているわけでは無いんです。
この主張は、あくまで「反対に見える側面」の話であって、
「めんどうくさがりかどうか」という話とは、
そもそも「関係が薄い」ものなんですね。
つまるところ、「ある全体」と「別の全体」の話なわけで、
どちらがどちらを否定しているというわけでもないので、
これ、そもそも噛み合ってないんです。
要するに、反論のように見えるこのやりとりは、
その実、単に「違う話」をしているだけなんですね。
はい、というわけで、ここで『重要』の感覚が来ます。
というのも、ここで「全体」の話が『主題』の場合ですが、
当然ですが、この時に重要なのは「メインの全体」の方ですよね?
つまり「別の捉え方」の話は、
「メインの全体」の話に比べて『重要ではない』ことになります。
まあ、そもそも違う話ですし。
そしてこの場合、最小単位は「人」になっています。
要はここで言う「全体」というのは、
「全ての人の数」なわけですね。
んで、この例だと、
その比較した数は『総数』と「別の総数」の2つで、
しかし「詳しい・正確な数」は『分かっていません』。
はい、『正確な数は分からない』ですが、
事実として、こうやって比較することはできちゃってるわけです。
こんな感じに「全体」と一言で言っても、
「めんどくさがり」のように「ほぼ100%」のパターンもあれば、
「かなり頑張ってる」みたいな「多分20%」の場合もあるわけです。
この2つの場合は「反対に見える性質」ですが、
その実、どちらの性質も当てはまる場合はあるわけですから、
どちらが正しくても互いの否定にはなりません。
しかしどうでしょう?
このような反論のされ方、けっこう見ませんか?
念のため、他の例も見てみましょうか。
よく見るやつだと、例えば「あの人はすごい人だ」と、
「でも~っていう失敗をしてるよ」とか。
この場合の「数」は、
例えば「その人の行動の結果」とかでしょうかね。
他のでも良さそうですが、分かりやすいんでこうしておきます。
この上で、「あの人はすごい」と主張するのは、
これは単に「すごい人をすごいと言っているだけ」です。
自然に考えると、これは「否定する意味が無い」ものになります。
ただの主観的な感想なので。
しかし、これを否定する人、意見というのは存在してるんですよね。
とりあえず、分かりやすい有名人でも思い浮かべてみてください。
批判されやすい人とかがベストでしょうか。
んで、これに対してですが、否定・反論をよく見ませんか?
そう、俗に言うアンチと呼ばれる人達の攻撃方法とかが良い例ですね。
彼らはよく「一部の失敗・欠点」を目敏く見つけてきて、
それを大げさに取り上げることで人格を否定したりします。
こうすることで「印象」を貶めて、
「すごい人だ」っていう主張をメタ的に否定しようとするわけですね。
これは、いわゆる「印象操作」の技法ですが、
ともかく、そもそもの話として、この「一部の失敗」の話は、
「すごい人である」の反論になっているんでしょうか?
まあ、自然に考えてみれば明らかですが、なってませんよね。
「その人がすごい」ことと「一部の失敗」には、
気にするような関係は、ほとんどありません。
そもそも失敗しない人なんていませんし。
まあ、これについては「失敗」の度合いにもよりますが、
いわゆる「凶悪犯罪」とかでない限り、
総合評価にも大した影響は出ないでしょう。
しかしどうでしょうか?
実際、このような「反論になってない反論」なのに、
なぜか「否定している感じになってしまう」ものってありますよね。
はい、ここに「数値感覚」というのが来るわけです。
というのも、この感覚が「乏しい」場合、
↑の感じでも問題なく否定できていると、反論になってると、
そう勘違いしてしまうことが多くなります。
とまあ、こんな感じですね。
他の例としては、「国の利益」と「個人の不利益」とか。
「見た目が良いと有利」と「中身だけでもすごい」とか。
この辺りも良い感じの例でしょうか。
とまあこのように、『重要』だと思う感覚っていうのは、
↑で示したような『量の比較』が原理としてあるわけです。
そう、人は「数の比較」を行うことでこの感覚を得ています。
ですから『重要』という感覚を捉える時、
そこには「数値的な感覚が存在する」と言えるわけですね。
そしてこれを持っている人は、
勘違いが非常に少なくもなるわけです。
↑みたいな反論になってない反論を見抜けるので。
構造
結論から行くと、これは『冪集合』の構造で実現できます。
ただ、情報の階層が増える場合、作り直さなければなりません。
それと、他にも注意すべき点があって、
それを一言で言うと、『使う領域が限られている』ってこと。
どういうことかというと、『観測するもの』は「有限」ですから、
ベースとして作られた『冪集合の中身』は、
「全て使うとは限らない」わけです。
当然の話として、「仮に存在している」としても、
それらが多ければ、人間は「認識することができない」ので、
結果、中身の要素全てに名前が与えられることはありません。
この感じで定義すると、
「全体像」はそのまま『最もサイズの大きな冪集合』として、
「1つの具体例」は「一元集合」として定義されることになります。
そしてこの感じだと、
「具体例の少ない集まり」は「少ない有限集合」で定義される感じ。
ここでなんとなく分かると思いますが、
この「具体例」と「具体例の少ない有限の集まり」については、
基本的には『重要ではない』ものとなります。
これに対して、「全体」や「大域的な一部」については、
『ある性質を持つ具体例の集まり』で定義されるので、
結果的に「要素数が大きく」なります。
具体的には、「全部」か「ほとんど」か、
もしくは「過半数以上」とか。
とにかく、全体を占める割合が大きいです。
んで、このようなものが「重要」とされるわけですね。
なにせ全体を占める割合がでかいんですから。
細かな形式についてはまとめてやります。
最小単位
|| 感覚的には具体例・一事例のこと
要するに『一事例・実際の結果の一つ』がこれ。
言い換えるなら、ある主張を支える「実例」のことですね。
結論としては、『結果』が最小単位に来ます。
より厳密には「最も実感しやすい観測結果」が。
ただ、この「結果」には原因があるので、
これは『過程という結果の集まり』とも「解釈」可能です。
つまり、これはあくまで「主観的」なもので、
「定義の厳密さ」には解釈の余地が残ることになります。
ともかく、ある結果は『原因という観測結果に分解できる』ので、
「結果」の『中身』については、ほぼ確実に存在することになります。
んで、これを考える必要がある場合には、
「最小単位となる結果」が細分化されて階層が増えるので、
その『中身』である「最小単位」は再定義されなければなりません。
これはこんな感じに「無限に遡及できる」わけですが、
例えば「人」という観測者であれば「無限回」は無理なので、
その「遡及の回数」については「観測者の裁量」次第になります。
とはいっても、基本は「実感しやすい結果」です。
例えば6面サイコロを振る場合なら、1度振って1が出るとか。
こんな感じのやつを「分かりやすい結果」とします。
そして↑で言ったように、これにもまた「原因」は存在していて、
例えばこの場合だと、振り方やらサイコロの初期位置やら、
こういった結果があって、出る目が確定されていますよね。
こんな感じで原子の動きやら素粒子の状態やらと、
見ての通りどこまでも遡及できるわけですが、
通常、人はそこまで遡及しません。
こんな感じに、人は「注目する領域」を決めています。
また、「分かりやすい」という初期位置も決まっています。
そう、人は「全て見ることはできない」ので、
「見るべき部分」にのみ着目することになり、
結果的にこのようになるわけです。
そしてこの「どこまで見るか」という裁量に関してですが、
根拠としては、「求める精度」次第ってところでしょうか。
状況によっては客観性の高い根拠を想定できるのでしょうけれど、
いずれにせよ、『主観的』になることは避けられません。
といっても、これだけじゃ分かり難いと思うので、
適当に、なにか具体例を考えてみようと思います。
先に言っておきますと、
これは『戦略』や『戦術』に関する話でもあるんです。
なにせ、ある「結果」とは、
「過程という結果の積み重ね」なわけですし。
これについては直観的に理解できるかと思いますが、
分かりやすいので、この具体例で考えてみましょうか。
というわけで、この適切な具体例を考えるために、
とりあえず『戦略』と『戦術』の基礎の話をします。
より厳密には「目的達成までのフレーム」の話をします。
これを大雑把にまとめると、↓の3手順。
「人が~をしたいと思う」からこそ、
「目的のための実現できる手段を実行する」ことで、
「思った通りに、実現可能な目的を達成する」ことができる。
これを見て分かると思いますが、
「思った通りに目的を達成する」という『結果』のためには、
少なくとも2つの『結果』が必要になります。
更に言うなら、当然の話として、
この「目的」も「手段」も細分化できるわけです。
例えば「良い成績をとる」と言っても、
それは「安定して何点とる」という定義付けから始まり、
そのための手段として「何点取れるように勉強する」が来ますよね。
これを見てわかる通り、「安定して~点とる」という「手段」にも、
「~点取れるように勉強する」という「手段」があるわけです。
そしてこれも当然のことですが、「目標」という結果にとって、
やはり『重要』なものとそうでないものがあるのは明らかです。
というのも、例えば「お金を稼ぐ」なら、
「どこかに就職する」とか「職業を作って社長になる」だとか、
手段自体はいくらでもあります。
しかし、人は「手間」などの『リスク』を考慮し、
ほとんどの人は「就職」を選択しますよね?
つまるところ「努力」よりも「就職」という、
言ってしまえば「誰にでもできそうな方」が『重要』とされ、
それ以外はそもそも注目されません。
このように、やはり『重要』という感覚は「選択」の際に必ず発生し、
『観測者の裁量で』その重要度合いは設定されることになります。
これを分かりやすく観察できる事例としては、
「手間がかからず実現可能」と「手間はかかるが実現可能」なら、
「手間が少ない方」を選択する、とかがありふれてますね。
直観的に分かると思いますが、
人はこのようにして「重要」を決める傾向が強いです。
実際、「長期的に大きな利益を生む」場合を想定するにしても、
「利益の最大化」と「手間」では、
多くの人は「手間」を優先しています。
なぜなら仮に「利益の最大化」が重視されているのなら、
自然に考えて、「就職」よりも「起業」が選択されるはずですから。
これは他にも「勉強」なんかでもそうですね。
しかし、現実的には「手間」や「普通」が重視され、
多くの人は「後回し」や「就職」を選択してしまいます。
「勉強に時間を割く」方が、「起業」する方が、
どう考えても、明らかに利益が大きいにも関わらず。
つまるところ、ほとんどの人は「短期的に利益が得られる」という、
いわば「安易さ」を『重要』視しているわけです。
そして重要視しているからこそ、
「利益の最大化」よりも「安易さ」が優先され、
「起業」よりも「就職」を選択するようになるわけですね。
これはいわゆる人の愚かさについての話なわけですが、
こう見ると、なんだかんだと合理的な選択だと思いませんか?
きちんと「手間を嫌う」という理由の元に、
「しない」という選択をとっているわけですし。
こんな感じに、多くの人は「手間がかかること」を選択しません。
理由は↑で語った通りで、整理すると、
多くの場合「安易さ」の重要度合が、非常に高い傾向にあるので。
とはいえ、これはあくまで「多くの人」にとっての話です。
というのも、一部の人達は知っています。
「安易さ」に流されて「しない」という選択をし続けると、
『長期的』には大きなマイナスを抱えるということを。
「努力という手間を省いたツケ」は、
どこかで必ず清算することになるということを。
そしてだからこそ、一部の人は「安易な選択」を避け、
「より合理的な理由」に則って、努力を選択するんですね。
単純な話、それで「最終的に」は「最も手間が減る」ので。
大企業に就職するために受験や就職活動を頑張るのも、
個人事業の確立・起業のために知識を得て努力をするのも、
全てはこのように「長期的な視点」の元に行われてるわけですね。
とまあこんな感じで、
大雑把には、これが『戦略』と『戦術』の感覚になります。
戦略
先に具体例を見てみましょうか。
そのために、ちょっとした「目標」を設定してみます。
とりあえず、「技術を身につけたい」とかにしましょうか。
なんでもいいですが、じゃあとりあえず「プログラミング」で。
整理すると、「プログラミングの技術を身につけたい」。
これを「目標」にして、戦略的な感覚を掴んでいきます。
見ての通り、これだけじゃまだまだ抽象的ですよね。
そもそも「何をもって目標を達成したとするのか」が曖昧ですし、
その手段もよく分かりません。
はい、ここで『戦略』の考え方が来るわけですね。
これを一言で説明すると「帰属関係を辿る」感じなわけですが、
これだけじゃよく分からんと思うので、
まずは具体的な例でその流れを見ていきます。
そのためにとりあえず↑の例に話を戻すと、
まず、なんにせよ、このままじゃとにかく「曖昧」ですよね。
目標が漠然としていて、更に言えば達成するための手段すら曖昧。
ですから、まず最初に「目標を達成したとする根拠」を、
「とりあえず決めてしまう」ってことをしなければ、話が進みません。
なぜなら決めないと、「終わり・着地点」が見えないので。
この上で考えますが、想定される「達成したとする根拠」の中には、
当然、明らかに「実現不可能なもの」が存在しています。
例えばワイルドカード的な感覚だと、
「お金がいくらでも使える状態になる」とか、
もっと無謀なものだと「全知全能の神になる」とか。
自然に考えてこの「目標を叶える手段」は実現できないので、
この時点で「実現不可能なもの」として除外しなければなりません。
そうして残ったもの、
「実現できるもの」が絞り込まれるわけですね。
ここで例のプログラミングの話で見ていくなら、
例えば「全ての言語の、全ての機能を覚える」となると、
これはまず確実に不可能です。
理論上はもしかしたらできるのかもしれませんが、
「発展」し、「新しいものが生まれる」以上、
それらにも対応して全て覚えるというのはまず不可能でしょう。
そんな「時間」はもちろんありませんし、
そこまでする「動機」「体力」を、まず誰も持っていません。
なにより、それを「しなくても目標の実現は可能」です。
逆に言えば、これを目標達成の根拠とする場合、
「無限に時間がかかる」上に「無限に体力を消費する」わけで、
ほぼ確実に途中で挫折することになります。
こういう感じに『実現不可能なもの』は弾いていかないと、
「目標の達成」には辿り着けないわけですね。
というわけで、そうやって「全て」とか「ほとんど」とか、
そういう『無制限』な感じの無理筋な達成基準を排除していくと、
結果的に、「短い手順」「分かりやすい結果」が残ることに。
んで、「プログラミングができるようになる」という目標なら、
例えば「成果物を作れること」なんかが残ることになります。
というのも、例えば「ブログを1から作れた」という人がいれば、
多くの人は「プログラミングができる」と判断するでしょう。
どうですか?
まあ、その多くの人の中には自分も含まれてないとダメですが、
ともかくこういう風に「納得できる基準」ならそれで十分で、
この例では、『全てできる必要は無い』わけですね。
とはいっても、「世界一」とかを狙ってるなら、
この『全』の感じに近いことを実現する必要はあるんですが。
ともあれ実現が不可能とは言えないけどって感じの、
いわゆる「世界一」とかを除いて考えるなら、
案外、「達成したとする基準」というのはすぐに見つかります。
これを「妥協」という人もいるでしょうが、
原理的に『全て』というのは非常に実現性が乏しいので、
「実現できる範囲」で考えるなら、この「妥協」は必要不可欠です。
んで、この「妥協」の範囲についてですが、
これは「主観・個人の裁量」の範囲になります。
独自に、納得できる基準を決めなければなりません。
この「基準を決める」ための指標としては、
「目標が高すぎる」と「相応の手段」を経る必要があって、
「目標が低すぎる」とだいたい「納得できない」となります。
こんな風になるので、
「適度な設定」を決めるのが、もしかすると一番大変かもしれません。
こんな感じに、大事なのはとにかく「成果」です。
『すべて実行する』のは不可能ですから、
「創りたいものが創れる」なら、とりあえずそれで良しとします。
とまあこういう感じで、「目標達成の根拠」として、
『戦略』は主観的に定められるわけですね。
↑の例で定めた基準で納得できない人はいるかもしれませんが、
納得できないなら、もっときつい条件にしてみましょう。
例えば「成果物を10個は作る」とか。
他にも「プログラマーとして仕事を何年」とか。
いくらでも好きに再設定していいですから、
やろうと思えばいくらでもきつくできます。
ともかく、無理に納得する必要はありません。
「自分が納得できる基準」であることが最重要です。
とまあこんな感じで、↑の例だと、
「成果物を得る」という基準、『戦略』が得られました。
厳密には「創りたいものを創れる」という基準が。
ただ、これでもまだ抽象的ですよね?
特に「創りたいもの」という部分についてはひどく曖昧です。
なので、ここでも↑のように、
この「創りたいもの」について考える必要があります。
まず単なる事実として、
この「創りたいもの」についてですが、
これが無ければ、そもそも「成果物」は得られません。
というわけで『戦略』の実現のためには、
「創りたいもの」をきちんと定める必要があって、
そこから更に「実際に創れるもの」を決める必要があるわけです。
例としては「収益化のためのブログの作成」とか、
他にも「分かりやすい成果物」として、
例えばなにか、「単純作業を自動化するプログラム」とかも。
んで、ここまで分かると、
後はそれに『必要な知識だけ』を集めて、
実際に成果物を作り上げるわけですね。
とまあ、こんな感じ。
こういう流れで、「目標」は『具体的に』なっていきます。
見てわかる通りですが、
基本的に、これらは「実行可能」でなければなりません。
ともかく、こうして『戦略』は出来上がるわけですね。
この流れを見て分かる通り、
「目標の達成」という『結果』には、
「多くの過程・手段」という『結果』が存在しています。
『戦略』の次元でもこの調子ですから、
さらに細分化していくとけっこうな数です。
何が言いたいかというと、
「目標の達成」という『結果』それ自体は、
「多くの結果を内包している」と、そう言えますよね?
整理すると、
「目標」→「実現可能目標」→「手段」
→「実現可能手段」→「手段」→・・・
という感じなわけですから、
『結果』にも「階層」が存在するっていうのは、
↑の感じでなんとなく納得できると思います。
戦術
というわけで、『戦術』についての話をするために、
「戦術を導く」ことになる『戦略』を細分化していきます。
とりあえず、具体例を見てみましょうか。
そっちの方が分かりやすいと思うので。
というわけで↑の例をそのまま使います。
その中でも『戦略の1つ』である、
「ブログの作成」に着目してみましょうか。
当然ですが、このままではなにをすればいいのか分かりません。
「ブログを作る」と一言で言っても、どうすれば良いのやら。
こんな感じで、このままでは「やり方」が曖昧なので、
まず「ブログの作成に必要な手段」を考える必要がありますよね?
言い換えるなら、
「戦略」である「ブログの作成」を実現するための、
いわゆる「戦略を実現する手段」を考える必要があるわけです。
結論から行くと、この「戦略を実現する手段」こそが、
『戦術』と呼ばれるものになります。
ただ、ちょっとややこしいですが、
この『戦術』を「小目標」として捉えた場合は、
この『戦術の単位』では、戦術は「戦略」という名前に変わります。
要領は「具体」と「抽象」の感じです。
「戦略」「戦術」は、この意味を狭く・具体的にしてるだけ。
ともかく比較して整理すると、
「最終目標の達成に直結する手段」が『戦略』で、
「戦略を実現するための手段」が『戦術』ですね。
具体例に話を戻すと、この場合だと、
例えば「html, css, Java, php の勉強」だったりが戦術になります。
他にも「レンタルサーバーについての知識を得る」とか、
「Wordpress の使い方を学ぶ」とかもそうですね。
これら『必須となる戦術目標』を全てクリアした結果、
「戦略目標が実現される」ことになります。
つまるところ「戦略目標の実現」という結果は、
「戦術目標の達成」という結果をも意味することになるわけです。
ここで比較すると、
『戦略の達成』という結果は、
「戦術の達成」よりも、必然的に『重要な結果』となります。
戦術についてはこんな感じですね。
見ての通り、これは基本的に「戦略とセット」になります。
どの領域の結果か
見ての通り、『戦略』と『戦術』を仮に達成した場合、
それらは同じく「結果」として扱われるわけですが、
明らかに「内包する結果の量・質」は異なります。
つまるところ、
『戦略次元での結果』と、
『戦術次元での結果』は、同列に見ることはできないんです。
分かりやすい例としては、
「東大合格」と「センター足切り回避」は、違うよね? って感じ。
しかし実際的な話として、これらは混同されます。
なぜならいずれも「一つの結果」だからです。
しかし、明らかに「重要度」は異なるわけで、
同列に扱うことは、自然に考えておかしいでしょう。
しかし、こういう『数値感覚が欠如している』場合、
「区別できない」ため、これらは同列に見えてしまいます。
繰り返しますが、実際問題、
「戦略次元」と「戦術次元」は『重要度が違う』わけです。
明らかに、「戦略次元」の方が重要ですから。
んで、ここで「数の感覚」が来るわけですね。
というのも、この「区別の基準」は、
「階層」や『結果の数』から導かれるので。
どういうことかというと、『戦略の達成』とは、
つまり『その為に必要な戦術目標を全て達成する』ことです。
対して『戦術の達成』とは、
「戦略次元」から見れば、あくまで「一つの結果」に過ぎません。
いわゆる「全」と「個」の関係になるので、
明らかに『戦略次元の結果』の方が「重要」です。
これは「戦略」と「戦術」という『階層』の違いもそうですが、
単純に『達成された結果の総量』でも「比較」ができます。
大雑把にまとめると、要はこんな感じ。
ざっとした形式化は↓のまとめに。
分類
|| 概念の構成要素を集めた一部分
これは「枠の一部」のお話です。
厳密には「戦略や戦術の一般化」のこと。
基本的には、このどれかが『重要なもの』になります。
当然、その中には「重要じゃないもの」もあるので、
その『違い』について、メインで定義していく感じです。
この話をするにあたっての重要な「疑問」なんですが、
そもそも『全体の一部』といっても、
これ、具体的に何なの? って話ですよね。
結論としては主に2種類になるんですが、
2種類の理由は「公理的集合論」の説明になるのでカット。
ともかく「条件で仕分けするやつ」と、
「単にいくつか集めたもの」の2つがあります。
(外延と内包)
この中でも「条件で仕分けするやつ」についてですが、
基本的に、これが『重要なもの』として扱われます。
逆に「いくつか集めたもの」は、あまり重要とはされません。
ただ、基本と言っているように、例外はあります。
例えば「条件が厳し過ぎる」場合だと、
「条件で仕分けしたもの」は重要じゃなくなることがあったり。
また「単に集めたもの」でも、
「集める量がめちゃくちゃ多い」場合は、重要になったりします。
しかしこれら例外の事例はほとんど見られないので、
基本的には使わないと思って問題ありません。
使う場合は「専門的な分野くらい」と思っておけばOK。
この場合ではそこそこ見ますが、これはあくまで例外です。
「超厳しい条件」も「大量のデータ」も、
どちらも日常的なものとは縁遠いでしょう。
ともかく、話を戻すと、
『全体の一部』は、主にこの2つに分けられます。
この内の「条件で仕分けするやつ」は特に大事で、
これは見た目の上では「中身を後で追加」できます。
なぜなら「条件に一致してれば含んでいる」ので。
ですから「単に集めたもの」よりも、
結果として、ほぼ間違いなく多くなるわけです。
何より「単に集めたもの」の場合、
実際的には、多くても2,3個程度に収まる場合がほとんです。
というのも、それ以上を表現する機会はほぼ無いので。
ですから「条件で仕分けするもの」は、
ほぼほぼ間違いなく、結果として「単に集めたもの」よりも、
遥かに「多くの結果・要素」を持つことになります。
感覚的には、「中身が決まってる箱」と、
「中身の性質が決まってる箱」の違い、という感じ。
前者の中身は増えませんが、後者は増えます。
んじゃこれ具体的にどんなものなのかっていうと、
例えば↑の「戦略」の話なんかで言うと、
「目標達成に直結」「実現可能」「実行可能」とか。
この辺りの条件を使って「手段の大枠」を決めてる感じ。
この「条件で絞り込まれた大枠」を「分類」と定義しています。
そしていざ実際に行動に移す時、
その「枠の中に入る手段」の1つを採用してる、という感じ。
これがいわゆる基本的な「意思決定」の流れ。
実行できる行動は、基本的には1つだけですし。
ともかく、このように「条件で指定する」と、
なんだか「広い範囲」を覆える感じがしませんか?
↑の場合で見ても、
例えば「成果物の作成」という大枠が創れるわけで、
『非現実的なもの』も含めれば中身はもっと増えます。
ともかく「条件に一致するやつ」にしてしまえば、
「人が思いつくもの」に限り、
基本的になんでも含むことができるわけですね。
こういうのを『分類』と勝手に呼んで、
「多くの場合で重要なもの」として見るわけです。
とまあ、こんな感じに「分類」を考えられるわけですが、
当然これにも「重要度の差」というのはあるわけで、
これもかなり大事な話です。
具体例を考えるなら、
↑で挙げた「戦略」と「戦術」の関係とかだと、
これは単純に「階層の差」で比較が可能です。
しかし「階層が同じ」になる場合は、
果たしてどのようにして比較すれば良いのでしょう?
この辺り、きちんと基準を設けないとおかしくなるので、
きちんと「階層が同じ分類同士の比較」についても、
分かりやすく、うまいこと定義する必要がありそうです。
というわけで、この辺りについて詳しく見ていきましょうか。
結論としては、「大域」と「局所」で区別します。
大域 Global
これは、要は『戦略』を「一般化」したものです。
「分類」の中でも、特に『全体像』にとって、
「ほぼ全てをカバーする」ということで、
実質的に「重要」なものとして扱われることになります。
ただし「全部とは限らない」という点に注意。
例えば『戦略』なら、「実現不可能なもの」は含めませんが、
これは「全体」としての「目標の達成」には直結しています。
つまり、見た目の上では「戦略」は全てをカバーしているわけです。
実際には「定義した、実現可能な領域だけ」ではありますが。
これを見て分かる通り、「人に見える全体像」を表すのに、
その「中身の全て」を見る必要は無いんです。
まあ、そもそも「全部」は見れませんし。
とまあこのように、
『人に認識できる』部分の「ほぼ全体を覆うもの」さえ分かれば、
それは「重要」なものとして扱えますよねって話。
はい、つまりこの「ほぼ全体を覆うもの」のことを、
ここで「大域」と呼ぶことに決めた、という感じです。
繰り返しますが、具体例は「戦略」とかがそうです。
似た話ではありますが、「抽象概念」なんかもそうですね。
他にも「主張」とかもそうです。
せっかくですし、これらも少し見てみましょうか。
基本は、「全体像」が「抽象情報」のとき、
「大域」は存在している、という仮定からスタート。
確認しておくと、『全体像が抽象情報である』が、
この「大域が存在する」の前提になります。
具体的な例としては、例えば「人の全体」の話の時に、
「生きる」「食べる」「寝る」「めんどくさがり」とか。
こういうのが「大域」と呼ばれるものを構成する特徴になります。
大域については以上です。
次は、この「大域」とはまた違うものとして、
この「大域の一部」として定義できるものを見ていきます。
局所 Local
↑のように『戦術』を「一般化」したものがこれ。
大域は「大多数かどうか」が基準になりますが、
こちらは『比較して狭い範囲』がメインになります。
基本的には2つの範囲に分けられて、
1つは「戦略の一部」のような『大域の一部』に。
1つは「大域以外」になる『例外を集めたもの』に分けられます。
大量に集める場合なんかの例外を考慮すると、
「大域の半分以下」だってことにもしておきたいですね。
こうしないと「大域とほぼ一致するもの」も含むので。
まとめておくと、『局所』とは、
「大域の一部」の「小さいもの」と、
「全体像の例外を集めたもの」で構成されます。
具体的には、例えば「人」の全体で見ると、
「頭が良い」「宝くじに当たる」「大金を得る」とか、
意外なものだと「普通」とかは、全体から見て少数です。
以上、「分類」の大まかな感覚はこんな感じ。
「大域」「局所」というとなんだか大げさな感じがしますが、
これは、要は「広い」と「狭い」の感覚を具体化してるだけです。
難しく考える必要はありません。
「分類」の詳細については『概念』の記事で語ってるので、
そちらを先にご覧になることをお勧めします。
まとめ
というわけで最後に「形式」について。
具体的な話は省略してざっとやっていきます。
『概念の構成』から「重要」なものが考えられる。
基本的には「分類」が『重要なもの』となる。
その基準には『要素数・基数』を用いる。
『戦略』や『主張』は「概念」で構成されている。
つまりこの構造を持つのなら、「重要」が考えられる。
構造は「冪集合」で、基本は『下に広げていく』。
だだし『正確な要素数』は分からなくても問題ない。
なぜなら『重要』であるとは、
「全体から見た割合」が「大きい」ということ。
つまり「集合同士の関係」を見れば、その「割合」は分かる。
また「大域を占めるものは分かる」とする。
また同様に、「局所を示す分類も分かる」とする。
これは『自然な解釈』で得られる。
また『大域を作る条件』を「本質に近い」とする。
つまり、これを抽象化すれば『本質』が得られる。
基本的に、『観測結果』を「全体に加えていく」とする。
例えば「観測者」が「人」の時は、操作は「有限回」しか行われない。
故に『全てを観測する必要が無い』ので、
『見える範囲だけ』を用いる。
前提として、「全体と部分」は包括規則により無限に増えていく。
加えて、包括条件の無いものは「基本的に有限になる」とする。
また、こうならない「観測者」は「人には理解できない」ものになる。
全体と部分と要素
・ 全体
i_{\mathrm{element}}∈I_{\mathrm{part}}⊂I_{\mathrm{global}}∈I_{\mathrm{overall}}
I_{\mathrm{overall}}:=\{i∈2^{I}\,|\,\,i\,\,\,\mathrm{and}\,\,\,I\,\,\,\mathrm{is}\,\,\mathrm{observable}\}
I_{\mathrm{part}}∈I_{\mathrm{overall}}
\{i_{\mathrm{element}}\}∈I_{\mathrm{overall}}
I_{\mathrm{global}}∈I_{\mathrm{overall}}
I_{\mathrm{local}}∈I_{\mathrm{global}}
『全体』が指すのは「観測できるものに限定された冪集合」の方。
「 I 」は『変数』で、観測できるならなんの「情報」でもOK。
視覚的には「情報 I 」から「冪集合」を得て、
「階層を作っていく」イメージ。
・内包条件を持つ部分
I_{\mathrm{range}}⊆I_{\mathrm{global}}
I_{\mathrm{range}}:=\{i_{\mathrm{element}}∈I_{\mathrm{global}}\,|\,i_{\mathrm{char}}∈i_{\mathrm{element}})\}
・要素数の比較
\mathrm{card}(\{i_{\mathrm{element}}\})<<\mathrm{card}(I_{\mathrm{part}})
<\mathrm{card}(I_{\mathrm{overall}})<ω
大多数( \mathrm{Majority} )の感覚は主観的とする。
\mathrm{if}
i_{\mathrm{char}}∈\mathrm{Charasteristic}_{\mathrm{Majority}}
\mathrm{then}
\mathrm{card}(I_{\mathrm{part}})≤\mathrm{card}(I_{\mathrm{range}})
重要度
\mathrm{if}
\displaystyle \frac{\mathrm{card}(\{i_{1\,\mathrm{case}}\})}{\mathrm{card}(I_{\mathrm{overall}})}<<\frac{\mathrm{card}(I_{\mathrm{local}})}{\mathrm{card}(I_{\mathrm{overall}})}<\frac{\mathrm{card}(I_{\mathrm{global}})}{\mathrm{card}(I_{\mathrm{overall}})}
∨\,\,\,I_{\mathrm{local}}∈I_{\mathrm{global}}
\mathrm{then}
I_{\mathrm{global}}\,\,\mathrm{is}\,\,\mathrm{more}\,\,\mathrm{important}
\mathrm{than}\,\,I_{\mathrm{local}}
・局所と大域
\mathrm{if}
I∈I_{\mathrm{global}}\,\,\,\,\,∨\,\,\,\,\,I⊂I_{\mathrm{range}}
\mathrm{then}
I\,\,\,\mathrm{is}\,\,\mathrm{local}
・例外
I_{\mathrm{elements}}:=\{i_{\mathrm{element}_1},i_{\mathrm{element}_2},..., i_{\mathrm{element}_k} \}
全体からの比率が極端に低い場合。
だいたいはこれで、例外と呼ばれる。 k も多くて 2,3 。
\mathrm{if}
k\,\,\,\mathrm{is}\,\,\mathrm{low}
\mathrm{then}
I_{\mathrm{elements}}\,\,\mathrm{has}\,\,\mathrm{almost}\,\,\mathrm{no}\,\,\mathrm{effect}
ほぼ全ての要素を見る場合。
この事例は機械での情報処理くらい。
実生活じゃほぼほぼみられない。
\mathrm{if}
\displaystyle \frac{\mathrm{card}(I_{\mathrm{overall}})}{3}≤\mathrm{card}(I_{\mathrm{elements}})
\mathrm{then}
I_{\mathrm{elements}}\,\,\,\mathrm{is}\,\,\mathrm{important}
3分割の根拠は、単にこれくらいあれば十分でしょ、って感じ。
ここは主観なので、きっちりやりたいなら『統計』を使うべき。
逆に言えば、『統計』で「 k 」はサンプル数として求められる。
この「 k 」が適した数でランダムなら有効。
具体的には「最尤推定」とかで求める。